スイスでの入院生活(最初の発症)

【8月23日】

     
 

  寝台車は、定刻どおりチューリッヒの駅に到着しました。列車を降りた後、広大な駅構内を列車でもらった朝食券をもって食堂へ、どこの国にもあるようなモーニングサービスを食べました。今日は、天気がいいようなので、予定を変更して、明日に計画していたユングフラウヨッホへの登山鉄道に先に乗り、世界一高い駅を目指すこととしました。
 
  まずは、登山鉄道の始発で、宿泊する予定であるインターラーケンを目指しますが、その前に手荷物を預けます。スイスには『ライゼゲペック』というサービスがあり、駅から駅(または郵便局)へスーツケースなどの手荷物を送ってくれるサービスのことです。この制度を利用し、インターラーケン・オスト駅まで送る手続きを行いました。これで登山後にホテルに向かう途中に、駅で手荷物を受け取るまで、重い荷物のことを考えなくてすみます。

 荷物を預けた後、ICに乗りインターラーケン・オスト駅を目指しました。途中ベルンで進行方向がかわり、山に分け入っていく頃には、テレビで見たスイスの風景が窓に広がり感動の連続でした。
到着後、すぐにユングフラウヨッホまでの登山列車の乗車券を購入のために改札を出て、一旦駅構内の切符売り場に向かいました。登山鉄道は私鉄のためユーレイルパスでは乗車できません。しかし、ユーレイルパスを見せると、割引制度がありましたが、それでも結構高額な乗車券でした。

 頂上駅ユングフラウヨッホに行くためには、途中2回乗り換え、3列車に乗り継いでいく行程となっています。最初に、インターラーケンオストからラウンターブルネン駅へここで1回目の乗り継ぎを行い、アプト式(歯車式の第3レールを利用)の列車でクライネシャデックまで行きます。そして最終的に標高3,454mのトップオブヨローッパの駅ユングフラフヨッホに着き雪と戯れる予定でした・・?
 ところが、1回目の乗り継ぎが終わり2列車目も最後の乗り継ぎ駅に近づいた時、急に右半身が重くなり、力が抜けていきました。言葉もでなくなり、意識が遠のきはじめました。それまで、あこがれのアルプスの風景が展開する車窓に、右や左へと移動しながら、風景を写真に納めていました。

  椅子にも座っていることもできず横に倒れてしまいました、したがって乗換駅で終点であるにもかかわらず、降りることもできない状態となりました。最初、家内もあまりにも急な変化に何が起こったのか解らず、こちらも言葉が出ないため説明ができず、びっくりしていました。しかしながら、すぐに助けを求めに駅員を呼びにいってくれました。

 すぐに駅員が駆けつけ、動けない状態や言葉が出ない状況をみて、ただごとではないと思ったらしく、このまま、この列車を医師のいるヴェンゲンという駅まで臨時に走らしてくれました。ヴェンゲンの駅では、救急車が待機しており、担架に乗せられ小さな診療所に運ばれました。しかしながら診療所では、手に負えないと判断され、山岳救助隊のヘリコプターで大きな病院へ運ばれることとなりました。あいかわらずフラフラして言葉もでませんし、意識も夢を見ているような気分でしたが、どこかで”はじめてヘリコプターに乗るなあ”なんて意識も働いていました。

  酸素マスクをあてられながら、待つこと十数分、ヘリコプターの音が聞こえてきました。家内もヘリコプターに乗れると思っていたそうですが(美しいアルプスの風景が空から見れる?)、医師が同乗し、しかも私は担架に乗せられているため、乗ることができませんでした。私自身も担架に乗せられていたため、景色は見えず天井の大きなローターのみしか見ることができませんでした。多分、窓の外では、素晴らしい景色が展開していたと思います。

 
         
         倒れた登山鉄道                        倒れる前に撮った景色

 しかしながら、高度を下げ首都ベルンの大学病院に近づく頃には、全く動かなかった右半身もいつもどおり動きだし、言葉も不自由なく話せるようになりました。病院につくとテレビで見たERの世界が始まりましたが、既に倒れる前と変わらず、元気になっているのに、あれやこれやと診察と検査が行われました。日本語を話せる医師も訪ねてくれたので「もう大丈夫だから退院させてくれ、まだ旅の途中だから」と何度もお願いしましたが、入院させられることとなりました。今まで人生44年間、入院したことはありませんでした。それなのに海外で初入院という羽目になってしましました。

  夕方には、家内も病院に駆けつけてくれました。話を聞けば、私がヘリコプターに乗せられた後、列車で下山し、ホテルにチェックインし、その後、タクシーで今朝チューリッヒで預けた荷物を引き取りに行き、それから、ここ首都ベルンの病院まで鉄道とタクシーを乗り継ぎ、更にこの大きな病院の中で、この病室を突き止め、探し当ててくれました。

 本来でしたら、家内の顔をみると”涙があふれました”となれば感動的なのですが、英語でおしっこの単語がわからず、がまんしていましたので、”すぐに看護婦から尿瓶を借りてくれが”最初の言葉でした。 夜に、入院用の病室に移されました、ここは、2人部屋(これが基本みたいです)で各部屋にトイレとシャワーの施設があり、真ん中をパーテーションで区切って見えないようになっていました。日本では、6人部屋程度の広さがあり、同室の方もいらっしゃいましたが夜なのでわかりませんでした。家内は、夜遅くインターラーケンのホテルまで、1時間半かけて帰っていきました。

(帰国後、スイスからこのヘリコプターの搬送代の請求書が届きました。なんと60万円でした。後ほど後述しますがすべては旅行保険会社から支払われ助かりました)

           
     
   
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